今昔物語集 現代語訳

『今昔物語集』の現代語訳と解説。有志の参加者募集中です。

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巻五第十一話 小僧の血が五百の旅人を救った話

巻5第11話 五百人商人通山餓水語 第十一

 

今は昔、天竺に五百人の商人があり、商用で他国に行く途中にある山を通りました。かれらは一人の沙弥(しゃみ、年少の僧)を連れていました。

間違った方向に足をすすめ、山深い場所に迷い込んでしまいました。そこはすでに人の行き来がなくなった場所で、飲み水がありませんでした。商人たちは三日間も水を飲めずに喉が渇ききり、死にかけていました。

そこで商人たちはこの小僧に向かって言いました。「仏さまはこの世に生きるものすべての願いを叶えて下さる。有難いことに、三悪道の苦しみでさえ身代わりに受けて下さる。さて、あなたは頭髪を剃り墨染めの法衣を着る仏さまのお弟子さまです。私たち五百人はすぐにでも脱水で死んでしまうでしょう。私たちを助けて下さい。」

小僧は「その願いは本心からのものですか。」と聞き返しました。
商人たちは「今日生きるか死ぬかはもはやあなた次第です。」と答えました。

そうして小僧は高い峰に登り、巌の下に腰を下ろして言いました。「私は頭髪を剃りましたが、いまだに未熟です。人を救う力などありません。」

それでも商人たちは「あなたは仏さまのお弟子さまの姿をしています。どうか私たちを助けて下さい。」と水を求め続けますが、仏の弟子にはどうすることもできません。「十方三世の諸仏如来よ、私の脳漿を水に変え、商人たちの命をお助け下さい。」と願い、小僧は巌の端に頭を打ちつけました。

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そして血が流れ出しました。その血は水へと姿を変えました。五百人の商人と連れの牛や馬はその水を十分に飲み、死を免れました。

その小僧は今の釈迦仏そのものであり、五百の商人は今の弟子たちだ、と語り伝えられています。

 

【原文】

巻5第11話 五百人商人通山餓水語 第十一 [やたがらすナビ]

【翻訳】
濱中尚美

【校正】
濱中尚美・草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
濱中尚美

プロジェクト新人の濱中です。今昔物語集にも仏さまの話にも、ど素人です。

というわけで、翻訳はなんとかなったみたいですが、このお話の解説をどうするのかに困りました。でも私なりの突破口がありました。

まず「天竺」というと、ど素人系の人は「そうそう、西遊記だよね。ガンダーラ?」に繋がる確率がどうも高いみたいです。もちろんその一人です。そして「では天竺とはどこぞや?」という展開になり、それも西遊記で誰がどこに行ったという系列で導かれることが多いのでは?ネット検索をしているとそんなパターンであることが明白になってきます。でも同じ情報をぐるぐる廻るばかりで、じゃあ「天竺に住んでいた商人たち」はどんな人達だったのか、どこの近隣の国へ行こうとしていたのか、500人の群れで山で迷うなんて随分とあれだったな、など質問は尽きない訳で。そしてこれがどの時代の話としてあるのか。そういうことはもっと幅広く文献を検索しないとたどり着けない事になっているようです。ちなみに今昔物語集の成立年代と作者は目下不明。ただ11世紀末から12世紀初頭にかけて書かれたものでは?ということは知られているようです。今昔物語集とされる書き物で現在までに発見されているものは4部に分けられていて、このお話が収められている一番初めの「天竺部」とされるものは仏教説話ということなので、お話自体が作られたのはそれよりもずっと昔むかしのことだったのでしょうね。

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「かの天竺」の現在地がインドの北東部だということまではわかるのですが、行ったことないのでその辺の地形とか「山を越えていく近隣の国」がどこだろうか、お話が作られた当時の世界地図でもない限りその辺を詰める事はたぶん無理な話で。天竺は現在のインドのビハール(Bihar)とされる地域らしく、その周りの山となるとビハールの北に位置するヒマラヤ山脈が位置するネパールかなと思うのですが、あくまでも私の考えで。下手すると富士山よりも2倍以上高い山々ですよね。そこを越えて更に北のチベット方向に行こうとでもしたのでしょうか? 万年雪があると思うけど、やっぱり水に困ったのかな。

en-ca.topographic-map.com

まあ細かいことはそっとしておいて、肝心なお話の内容を吟味してみた方がよいかと。なんと言っても小僧(原文は「沙弥(しゃみ)」)が気の毒ですね。釈迦仏となったと伝えられるその人の有難いお話として後世に残すのが目的であったのはお察しします。でもその時まだ少年であっただろう沙弥の血が透明な水になったからといって、それを500人のいい歳だったろう大人達がごくごく飲むという行為は、その後の「仏の御弟子」となったとされる彼らに強烈な心のトラウマを残しただろう、私はそう思うのですね。本当に三悪道に行かずに済んだのかしら? いつの時代も生きることは罪なことなんですね。

まんが日本昔ばなし』に似た話がありました。

www.youtube.com

 

巻四第三十一話 王の殺意から逃れた名医の話

巻4第31話 天竺国王服乳成嗔擬殺耆婆語 第卅一

今は昔、インドに国王がありました。心はねじ曲がっていたし、いつもうとうとして、眠ってばかりいました。まるで寝ることが仕事のようでした。

こんな人はそうはいません。大臣や公卿は「これは病だ。だから終始うとうとして、眠ってばかりいるのだ」と断じて、位の高い医師を呼びました。
医師は「これは病である。すみやかに乳を与えるべきだ」と診断し、乳を献上しました。

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国王はこれを服し、おおいに怒りました。
「これは薬ではない。毒だ」
多くの医師が、首をはねられました。国王の病状はいよいよ増し、眠ってばかりいます。癒える気配はありません。

このころ、ひとりの尊い医師が召されました。医師は母后にこう問いました。
「王がお生まれになるとき、なにかあったということはありませんか」
母后は答えました。
「大蛇に犯される夢を見ました。王はそのとき懐妊したのです」
医師はこれを聞いて心の内で思いました。
「王は蛇の子だ。だからこのように終始うとうとして、眠ってばかりいるんだ」
その薬を考えましたが乳よりほかにはありません。
「乳を服用していただくしかない」
しかし、医師が何人も殺されています。乳を乳だといって処方するわけにはいきません。そこで、他の薬と乳をあわせ、「乳ではない他の薬です」と言って奉りました。

国王はこれを服しましたが、乳の気を感じ、おおいに怒って言いました。
「この薬を調合した医師を捕らえよ」
家来は医師を捕らえようとしましたが、医師は「こんなことがあるだろうと思っていた」と、薬を献上した後、速い馬に乗って逃げていました。家来が王にそれを申し上げると、「追って捕らえよ」と宣旨がありました。はるか遠くまで逃げていましたが、三日後、ついに捕らえられました。

医師は思いました。
「薬を服されたのだから、王は治癒して心を取り戻されているだろう。だが、治らないこともある。今、この家来とともに行けば首をはねられることもあるのだ。それはまったく益のないことだ」
そこで家来に、かならず死ぬ毒草を「これはとてもおいしいものです」と言って与えることにしました。まずは医師みずから食べました。家来は医師が食べるのを見てこれを食べ、みな死にました。

医師は毒消しを飲んでいたので死ななかったのです。家来たちはこれを飲んでいなかったので、死ぬことになりました。

うまくいったと考えた医師は、王城で隠れていました。国王はその間に、薬の力で治っていました。そして、自分を治療した医師を召しました。王はたいへん喜び、勅禄と官位を与えました。

世の人も、この話を聞いて、おおいに医師をほめました。これ以降、国王に乳を奉るようになったといいます。

この国王は竜の子であると語り伝えられています。

 

【原文】

巻4第31話 天竺国王服乳成嗔擬殺耆婆語 第卅一 [やたがらすナビ]

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

この王様はおそらく、ナルコレプシー(眠り病)だろう。

ナルコレプシーだった色川武大阿佐田哲也)が「ものくさ太郎はナルコレプシーだ」と書いていた。ナルコレプシーとはとつぜん、暴力的に睡魔が襲ってくる病気である。発作に襲われれば歩行中でもその場で眠ってしまうという。ハタから見ると寝てばかりいるように見えるそうだ。

ものくさ太郎は怠け者のレッテルを貼られてたいへんに苦労したが、この話の王様には「これは病だ」と認めてくれる家来があり医師があった。とても素晴らしいことだが、薬が乳とはなんとも。薦めた医者が首をはねられるとはいやはや。

この話の主人公である名医は耆婆(ぎば、ジーヴァカ、ジワカ)である。
釈尊やその高弟の病を治癒した名医として有名だが、ここではタイトルにその名が見えるばかりで物語の中では名を伏せている。中途半端なことすんなあ、どっちかにしろよと思うが、舞台がインドで名医といえば耆婆だと誰もがわかったのかもしれない。
浄土宗/浄土真宗で重んじられる『観無量寿経』や釈迦の死の様子を描いた『涅槃経』にも登場する有名人らしいので、その可能性はじゅうぶんある。名医の代名詞になっていたかもしれない。
余談であるが、タイマッサージの創始者もこのジーヴァカであるとされる。

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薬としてもちいられる「乳」だが、なんの乳だろうと思った。一般的には牛乳だが、インドには山羊もたくさんいるから、山羊の乳の可能性もある。
この話は経典『耆婆経』が出典だという。そこでは薬は乳ではなく「醍醐」とされている。醍醐とは牛乳の加工品だから、やはり乳とは牛乳であると考えるべきなのだろう。

チーズ、レアチーズ、バター、ヨーグルトと乳製品はいくつもあげることができるが、醍醐がなんだったのかはわからないそうだ。今は伝わっていない料理の可能性もある。ナルコレプシーの特効薬が醍醐なら説得力があるんだが、牛乳だとなあ。

牛乳からできる最上のものを醍醐といい、その味を醍醐味と呼ぶ。

巻四第三十話 死人の頭を売り歩く男の話

巻4第30話 天竺婆羅門貫死人頭売語 第三十

今は昔、天竺に一人のバラモンがありました。多くのドクロをヒモでつないで持ち歩き、王城に入って大声で叫びます。
「おれは死人のたくさんのドクロ貫いて持って歩いている。このドクロを買う人はいないか」
こう叫んでも、買おうという者は一人としてありません。バラモンは悲しみました。それを見てののしり笑う人もあります。

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そのとき、ひとりの智ある人が来て、ドクロを買い取りました。バラモンは耳の穴にヒモを通してドクロを持って歩いていましたが、この人はそのようにしません。
バラモンは問いました。
「なぜ、耳の穴にヒモを通さないのだ」
その人は答えました。
法華経を聞いた人の耳の穴に、糸を通すわけにはいかない」

その後、塔をたて、このドクロを供養しました。天より天人が下り、その塔を礼拝して去りました。
バラモンの願いをかなえるため、必要がないドクロを買い、そのドクロを供養したことを、天人も歓喜したと語り伝えられています。

(画像はカンボジアのキリングフィールドのもの)

【原文】

巻4第30話 天竺婆羅門貫死人頭売語 第三十 [やたがらすナビ]

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

 原文にはドクロではなくただ「頭」とある。インドには砂漠があるから、死者の頭が骨にならずミイラ化して干物になるところだってある。だとすればドクロは正確じゃないわけで、どうしようかなと思ったが、もともとこの話、唐代七世紀の仏教書『法苑珠林』にある話で、そこには「髑髏」とあるのだそうだ。これに習い、「頭」は「ドクロ」と訳出した。

もともとバラモン教(仏教やヒンズー教のベース)には、ドクロをお守りとする風習があったという。すなわちこの人は、酔狂でドクロを売って歩いているのではなく、「お守りにどうですか」と言っているわけだ。
スカルリングとか、ドクロをファッションにすることは現代でもめずらしくないが、その淵源のひとつはここに見えている。紀元前からあるんですぜ!  

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「八万四千の法門」と言われるぐらいで、仏教には本当にたくさんの経典がある。その中で、法華経こそ釈迦の教えの中心(正法)とする宗派は数多くある。

聖徳太子が『法華義疏』を著し、中国天台に学んだ最澄法華経を至上の教えとして天台宗を開いた。日蓮はこれを尖鋭化して日蓮宗法華宗)を開いている。
志村けんがギャグにしたうちわ太鼓たたきながらお題目を唱えるたいへん陽気な宗派は日蓮宗の一派である。文句は「南無妙法蓮華経」、法華経に帰依しますという意味だ。

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これ、志村けんはやめちゃったみたいだ。番組名にもなった「だいじょうぶだぁ」ってここから来てるんだから、やめるのは不自然。たぶんどっか宗教団体からやるなって声があったんだろう。

二・二六事件北一輝も、満州事変の石原莞爾も熱心な法華経信者であったし、創価学会とは日蓮の信者団体である。その創価学会を支持母体とする公明党が与党なんだから、法華経とは聖徳太子以降、現代にいたるまで日本を支配している教えだと言っていいだろう。

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ちなみに、このテキストの原文は日蓮よりずっと前に書かれている。なんか勝った気がするのは俺だけか。

 

巻七第二話 死者の右手が光を放ち、蘇生した話

巻7第2話 唐高宗代書生書写大般若経語 第二

(巻七第二話 閻魔大王の裁きを待つ書記生の右手が写経の功徳で大光明を放ち、蘇生を許された話)

 今は昔、震旦の唐の高宗の治世、乾封元年に、ひとりの書生がおりました。重病にかかってたちまち絶命しましたが、一日二夜を経て息を吹き返すと、次のように語りました。
「わたしが死ぬと、赤い服を着た冥界の役人がやってきて、文書を示しました。その役人にうながされるさまに付き従っていくうちに、大きな城の門前に至りました。すると役人がこう告げたのです。『ここの城主は閻魔大王である。この文書でおまえを召し出したのだ』と。わたしはただただ驚き怖れ、視線をわが身に向けました。すると、右手が大光明を放っています。その光はまっすぐに大王の座所まで射し入り、日月になおまさるまばゆさでした。

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閻魔大王はとつぜんの光明に驚き怪しみ、座から立ち上がって合掌し、光源を探してあちこちを見回すうちに、門外から射してきたのだろうと推量したのか、城内からお出ましになってわたしに目をとめました。そして、『そなたはいったいどのような功徳の働きで、右手から光を放つのだ』とお尋ねになりました。「およそいかなる善根もなしたる覚えはござりません。どうして光を放つのか、てんで合点が行かぬのです」と、わたしはお答えしました。
 大王はそれを聞くなり城内に戻り、一巻の文書を紐解いて調べ、それからまた門前にお出ましになり、法悦の面もちでこうおっしゃいました。『そなたは唐の高宗の勅命で、生前に『大般若経』十巻を書写している。右手に筆を持って書き写したことから、その手に光明が生じたのだ』と。そう告げられてはじめて、わたしは書写のことを思い出しました。
『そなたを放免するとしよう。ただちに帰宅するがよい』閻魔大王はおっしゃいました。『ですが、ここまでの道のりを忘れてしまいました』と申しあげると、『光を道しるべに帰ればよかろう』との仰せです。そこでその通りに光の指し示すままに帰路をたどると、住んでいた家が近くに見えてきました。するとその時、光は消え失せ、わたしは蘇っていたのです」書生はこう物語り、涙を流して切なそうに泣きました。
その後、書生は全財産を投じて『大般若経』百巻を書写したということです。
この逸話から読み取れるのは、写経がもたらす功徳の大きさです。ただ国王に命じられるままに経典の一部を写した人の功徳でさえかくのごとくなのですから、ましてや信仰心に打たれて経典全巻を書き記した人の功徳ともなれば、それこそ想像に余るものがあるのだろうと、そう語り伝えたのだということです。

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【原文】
巻7第2話 唐高宗代書生書写大般若経語 第二 [やたがらすナビ]

【翻訳】
待兼音二郎

【校正】
待兼音二郎、草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
待兼音二郎

今昔物語集』巻七の第二話は、前話に続いて『大般若経』の霊験譚となっております。

このように似た物語を二話(時には三話、四話と続くことも)続けて並べるのが『今昔物語集』の特徴で、「二話一類」様式と呼ばれていますので、今後の読解のためにも覚えておいてください。

hon-yaku.hatenablog.com

ではこの第七巻の第一話と第二話における共通点はと言えば、『大般若経』の奇瑞が光明となって現れることです。第一話では玄奘三蔵がインドから持ち帰った同経全600巻の翻訳を終えてのセレモニーの式場で経典が光を放って空から美しい花々が降りそそいだわけでした。これが龍朔三(663)年のこと。そしてこの第二話では、全600巻のうち10巻を皇帝の命で書写した書記官が、病死後に六道地獄の閻魔庁の門前で、右手がとつぜん光を放ったことで閻魔大王の感心を誘い、例外的に死亡をなかったことにしてもらい、蘇生するというお話です。こちらは乾封元(666)年ですから、時系列的にも矛盾なく前話とつながっているわけです。

 それはそうと、閻魔大王と対面しながら地獄に落とされるどころか現世への生還を許されるという展開には意外性や希少性が高く、創作の元ネタにもなりそうなお話ですね。日本の平安前期の貴族、小野篁(802~853年)には冥府で閻魔大王の補佐をしていたという伝説があり、冥府との行き来には井戸を用いていたということで、京都の六道珍皇寺にあるものがその井戸なのではないかとされているそうですが、小野篁の生涯は遣唐使の時代に重なりますから、二国をまたいだ物語にもできそうですね。

 さて書経といえば仏教経典の文言を書き写すことですが、それに似た行為に、文学の名作の文章をそのまま書き写すという文章修行のやり方があります。自分もやったことがありますが、パソコンで文字を打つのではなく紙の上にペンや鉛筆で文章をなぞるという行為には独特の没入感があり、前頭葉の血流が促進されるような心地すらして、なかなかよいものです。

 いっぽうその対極にあるのがコピペ、つまりは盗用です。大学のレポートや、一部の粗悪メディアやアフィリエイトブログのWeb記事に、コピペを加工しただけのまがい物がはびこる昨今。そうして記事を量産するモラルなき書き手と、コピペを前提に記事を買いたたく粗悪メディア、そして悪質性や違法性を重々知りながら両者のマッチングを積極的に進めるクラウドソーシング事業者という三者の共依存関係がトライアングル構造をなしているわけですが、今後の人工知能の発達により、そのトライアングル構造にひびが入り、そうした人力コピペ記事は遠からず駆逐されていくのではないでしょうか?

 Google検索結果のリストに表示される断片的な文章にすでにその一端が窺えますが、キーワードを投げた結果の情報のまとめは、いずれ機械が無料で完璧にやってくれるようになり、人間にはした金でやらせることが意味をなさなくなると思うからです。

 となると人間に残されるのは、全身全霊を込めた鏤骨彫心の文章術ばかり。かくして文筆仕事のあり方はインターネット到来以前の旧に復すると自分は楽観しているのですが、はたしていかがなものでしょうね。

 

(閻魔はチベットではヤマと呼ばれ『死者の書』にも登場する。17-18世紀ごろの仏画

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巻四第二十九話 何万年も生きた修行僧が山中で発見された話

巻4第29話 天竺山人見入定人語 第廿九


今は昔、天竺に山がありました。かぎりなく峻厳でした。

釈尊が入滅したのちのある日のことです。その山が落雷によって崩れました。崩れた山に入ると、ひとりの比丘(僧侶)がおりました。身体は枯れ乾き、目をつぶっています。鬢(びん)や髻(もとどり)は、肩まで伸びています。山に入った人はこれを見て驚きあやしみ、国王に伝えました。

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国王はこれを見るために、みずから大臣・百人の家来をつれて、比丘のもとを訪れました。礼拝して供養し、供の者に問いました。
「きわめて貴い人のように見える。これは誰だ」
ひとりの僧侶が答えます。
「これは、出家の羅漢(聖者)が滅尽定(めつじんじょう)に入っているのです。かなりの時間を経ています。だからこそ、鬢(びん)や髪が長くなっているのです」
国王は言いました。
「どうすればこの人の目を覚まし、起こすことができるだろう」
僧は答えました。
「いきなり定から出れば、身体をこわしてしまいます。何かを撃って大きな音をたて、起こす必要があるでしょう」
国王はその言にしたがい、この人に乳を塗り、椎の木をを撃たせました。羅漢は目を見開いて言いました。
「あなたたちは誰ですか。容姿は卑しいようだが、法服を着ています」
供の僧は答えました。
「私は比丘です」
「私の師である迦葉波如来迦葉仏)は、どこでどうしていますか」
「涅槃に入られて、ずいぶん経っています」
これを聞いて、羅漢は哀しみ歎きました。

釈迦牟尼仏は悟りを開きましたか」
「すでに仏陀となって、多くの衆生(人々)を救い、涅槃に入られました」

羅漢はこれを聞くと、がっくりと首を落としました。しばらくすると、手を髻(もとどり)にあげ、虚空に昇って、大神変を現じました。みずから火を出して、身を焼き、骨を地に落としました。

国王は多くの家来とともにこの骨を拾い、卒塔婆を立てて、礼して帰ったとのことです。

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【原文】

巻4第29話 天竺山人見入定人語 第廿九 [やたがらすナビ]

 【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

仏教において悟りを開いたのは釈迦のみではなく、未来にもいるし過去にもあった。釈迦をふくめた直近の七人を過去七仏といい、迦葉仏とは釈迦の直前に仏となった人である。

その人の下で修行してた人なんだから、髪だの鬢だの髻だのが伸びるぐらいで済む話じゃないだろう。いったいどのくらい前の人だ、と思い調べてみると、迦葉仏は人の寿命が二万歳のときの仏だという。

つまり、この羅漢は人の寿命が二万歳の時代の人なのである。寿命が違えば時間の感覚はまるで違うはずだから(『ゾウの時間ネズミの時間』)、何年前の人とか調べたって意味はない。てゆっか、俺たちと同じ生物じゃないんだよこの人。

だから山に埋もれたまま生きていられたし、空を飛んだり自分の身体を焼いたりできるのである。
人の姿を卑しいとかいうのもそのせいだろう。


過去仏にたいする信仰は釈迦在世のときには存在していたそうで、大乗仏教の成立よりずっと古い。

芥川龍之介、『今昔物語集』を語る(名文だ)

芥川初期の代表作『鼻』『芋粥』『羅生門』は『今昔物語集』に材をとっている。

羅生門』は黒澤明が映画にし、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、アカデミー賞特別賞を受賞した。「世界のクロサワ」と呼ばれるようになったのはこの後だ。

……と、ウンチクを並べてみたが、芥川による下の文章のほうが、自分にとっては100倍も価値がある。
まさに珠玉と呼ぶべき文章だ。

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『今昔物語』は前にも書いたように野性の美しさに充ち満ちてゐる。そのまた美しさに輝いた世界は宮廷の中にばかりあるわけではない。従ってまたこの世界に出没する人物は上は一天萬乘の君から下は土民だの盗人だの乞食だのに及んでいる。いや、必しもそればかりではない。觀世音菩薩や大天狗や妖怪變化にも及んでいる。もしまた紅毛人の言葉を借りるとすれば、これこそ王朝時代のHuman Comedy(人間喜劇)であらう。僕は『今昔物語』をひろげるたびに当時の人々の泣き声や笑い声の立ち昇るのを感じた。のみならず彼らの軽蔑や憎悪の(例へば武士に対する公卿の軽蔑の)それ等の声の中に交っているのを感じた。

僕等はときどき僕等の夢を遠い昔に求めてゐる。が、王朝時代の京都さえ『今昔物語』の教える所によれば、あまり東京や大阪よりも娑婆苦の少ない都ではない。なるほど、牛車の往来する朱雀大路は華やかだったであらう。しかしそこにも小路へ曲れば、道ばたの死骸に肉を争う野良犬の群れはあったのである。おまけに夜になったが最後、あらゆる超自然的存在は、大きい地蔵菩薩だの女(め)の童(わらわ)になった狐だのは春の星の下にも歩いていたのである。修羅、餓鬼、地獄、畜生等の世界はいつも現世の外にあったのではない。

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全文はこちら。

芥川龍之介 今昔物語鑑賞

 

 もう一カ所、好きなところを引用しておこう。
まったくそのとおりだと思った。

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法華寺の十一面観音も、扶桑寺の高僧たちも、ないしは金剛峯寺不動明王(赤不動)も僕等にはただ芸術的、美的感激を与えるだけである。が、彼等は目のあたりに、或は少くとも幻の中にこういう超自然的存在を目撃し、そのまた超自然的存在に恐怖や尊敬を感じていた。たとへば金剛峯寺不動明王はどこか精神病者の夢に似た、気味の悪い荘厳をそなえている。あの気味の悪い荘厳は果たして想像だけから生まれるであろうか?

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赤不動

 

巻四第二十八話 観音菩薩像が生身になって願いをかなえる話

巻4第28話 天竺白檀観音現身語 第廿八

今は昔、釈迦が涅槃に入った後のことです。摩訶陀(まがだ)国に伽藍がありました。名を□□寺といいます。その寺の堂に、白檀(びゃくだん)の観音菩薩の像がありました。

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たいへん霊験あらたかで、常に数十人の人が詣でていました。あるいは七日、あるいは二七日、穀を断ち、酒を呑まず、心に願う事を祈請して誠の心を表せば、観音菩薩みずからが、言い表せないほど美しい姿で光を放ちつつ、木像の中から、その人の前に現れます。そしてその人をあわれみ、願い事をかなえてくださいます。

このように姿を表すことが数度になりました。帰依したい、供養したい、という人がじつに多くなったのです。大勢の人がこの像に近付いて像が傷つくことを恐れて、像の四面に、七歩ほどの距離で木の欄干を立てました。人が礼拝するときは、その欄干の外からですから、像に近づくことがありません。また、礼拝の際に欄干から花を散じ、もし菩薩の手やひじにかかれば、願い事がかなうという伝説も生まれました。

ひとりの僧が、外国から法を学ぶためにやって来ました。種々の花を買って花鬘(花の髪飾り)をつくり、菩薩の像を詣でました。誠を至して礼拝して、菩薩に向いひざまずき、3つの願いを申し上げました。

「一つめ。この国で平安に、困難なく法を学びたい。成就するならばこの花、菩薩の御手に留まれ。二つめ。修した善根によって、次の生には兜率天に生れて、弥勒菩薩にお会いしたい。成就するならばこの花、菩薩のひじにかかれ。三つめ。教えの中には、『仏性をまったく有しない者がある』とある。もし、私に仏性があって、修行すれば仏になれる(悟りを開ける)ならば、この花、菩薩の頭頂にかかれ」

そう言って花鬘を散ずると、すべてが願ったところにかかりました。あらゆる願いがかなえられることを知ったのですから、心にかぎりなく歓喜がわいてきます。

そのとき、寺を守る人が僧の傍に来て語りました。
「あなたは必ず成仏(悟りを開く)といいます。願わくは、そのときに今日のことを忘れないでください。そのとき私を救ってください」
寺を守る人は約束しました。
彼に出会った人がそう伝えたということです。

 

【原文】

巻4第28話 天竺白檀観音現身語 第廿八 [やたがらすナビ]

 【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

白檀は英語でsandalwood、よい香りがするので、古くから香木として用いられていた。
たいへん貴重な植物で、人の手で栽培することはむずかしい。原産国はインド。他にも生育する国がいくつかあるが、それは香りがない別の種類のものだそうだ。

白檀はインド政府によって伐採制限・輸出規制がかけられている。したがって、ホンモノの白檀が入ったお香は、高価である。

www.nipponkodo.co.jp

白檀が貴重なのは、半寄生植物であるせいだ。はじめは独立して生育するものの、後に吸盤で寄主の根に寄生する。幼樹の頃はイネ科やアオイ科、成長するにつれて寄生性も高まり、タケ類やヤシ類などへと移るという。しかも雌雄異株。周りに植物がないと生育しないばかりでなく、交配して種子を残すにはオスメスが近くにないといけないのだ。
栽培が困難なのもうなづける。

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そこに白檀があるということ、それだけで奇跡みたいなものだ。

この白檀製の観音像が数々の奇跡を起こす、というのがこの話の要諦だが、白檀の希少さを知ってしまうと、そのぐらい起こしてもらわなきゃ困るぜ、という気にもなってくる。

 

弥勒については下記の解説参照のこと。

hon-yaku.hatenablog.com

 

なお、この話の「外国からやってきた僧侶」を玄奘三蔵だとするテキストがある。

hon-yaku.hatenablog.com

 

 

巻四第二十七話 清弁が真っ暗な毒蛇の窟に入った話

今昔物語集 巻四 護法清弁二菩薩空有諍語 第廿七


今は昔、天竺の摩訶陀(まがだ)国に、護法菩薩という聖人がありました。世親菩薩の弟子です。教法をひろめ、智恵甚深なることで、人に勝っていました。その門徒も多くありました。

同じころ、清弁菩薩という聖人がおりました。提婆菩薩の弟子です。この人もまた、智恵甚深であり、たくさんの門徒がありました。

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清弁は「諸法は空(くう)である」と主張しました。護法は「有(う)である」と主張しました。たがいに、自分たちの主張こそ真実であるとして争っていました。

護法菩薩は言いました。
「この論争は、誰かに実否を判定してもらうべきだ。弥勒(みろく)に問うのがよいだろう。すみやかに兜率(とそつ)天に昇って、質問してみよう」
清弁菩薩は答えました。
「弥勒はまだ菩薩の位であるから、問うべきではない。成道(悟りを開くこと)のときに問うべきだ」
論争は終わりませんでした。

その後、清弁は観音の像の前にして、水を浴み穀を断ち、随心陀羅尼(ずいしんだらに)を誦しながら言いました。
「私はここにこの身のままとどまって、弥勒の出世(悟りを開くこと)に会いたいと思います」
三年間祈り続けました。

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すると、観音が現れて、清弁に聞きました。
「おまえの願いはなんだ」
清弁は答えました。
「願くは、ここでこの身のまま、弥勒を待ちたいと思います」
観音は告げました。
「人の身は永遠ではない。善根を積んで、『兜率天に生まれたい』と願うべきだ」
清弁は答えました。
「私の願いは二つとございません。ここでこの身のまま、弥勒を待っていようと思います」
「ならば、駄那羯磔迦(だなかだっか)国の城の山の巌の執金剛神のところに参り、執金剛陀羅尼を誦して祈りなさい。そうすれば、その願いはかなうだろう」

清弁は観音の教えに随って、そこに行って呪を誦しました。祈請して三年が経ちました。

執金剛神が現われて言いました。
「おまえは何を願っているのか」
清弁は答えました。
「私の願いは、『ここでこの身のまま、弥勒を待つ』ことです。観音のおおせにしたがって、ここで祈っています」
執金剛神が言いました。
「この巌の中に、阿素洛(あそら)宮というところがある。法のとおりに祈請すれば、石の壁は自然に開くだろう。そこに入れば、この身のまま弥勒を待つことができる」
清弁が問いました。
「穴の中は暗くて外を見ることができません。どうやって、弥勒が仏になったことを知ればいいのですか」
執金剛神が答えます。
「弥勒が世に出たなら、私が来て告げてやろう」

清弁はそれを聞いて、三年間、祈請を続けました。ほかに願いはありませんでした。芥子を呪して、岩の面を打つと、洞が開きました。

たとえ千万の人があっても、その洞に入る人はひとりもいないでしょう。清弁は多くの人に言いました。
「私はこの中で祈請して弥勒を待ちます。もし、その志がある人は、一緒に入りましょう」
これを聞いた人は恐れおののきました。
「ここは毒蛇の窟だ。ここに入った人は、すべて命を失う」

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清弁がなお「入りましょう」と語ると、六人が随いました。

その後、もとのように扉が閉まりました。入らなかったことを悔いる人もあり、恐れる人もあったということです。

【原文】

巻4第27話 護法清弁二菩薩空有諍語 第廿七 [やたがらすナビ]

 【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

 大乗仏教において、悟りを開いた人を仏または如来という。釈迦如来とは、「シャカと呼ばれる悟りを開いた人」の意味である。

菩薩とは、悟りを開く能力はあるのだが、みずから望んで悟りを開かず、人々を導くために人の世にある者をいう。観音(観世音)菩薩はこれである。ほかに普賢菩薩とか文殊菩薩なども有名だ。
この人たちは出家していないから、民間人である。したがって髪も長いし、瓔珞(ようらく、ネックレス)や腕釧(わんせん、ブレスレット)などをつけ、たいへんおしゃれである。

この物語で聖人の名を護法菩薩とか清弁菩薩とか言っているのは、修行者の最上敬語だと思ってよい。

ここで清弁が主張している「諸法は空(くう)である」は、仏教思想の核心、空の哲学と呼ばれるものだ。反対の立場に立つ護法が登場するのがはじめだけなのは、清弁の主張が正しいと暗に語っているわけである。

大乗仏教には仏陀は釈迦ひとりではなく、過去にもいるし未来にもいると下に書いたが、それぞれの名前とプロフィールは決まっている。

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未来に悟りを開くのは、弥勒菩薩である。時期も決まっていて、56億7千万年後とのことだ。『今昔物語集』が新しく思えるぐらい長い月日だが、それまでの間、弥勒菩薩兜率天で修行しているという。観音も執金剛神も口をそろえて兜率天に行けというのは、ここで弥勒を待つと56億7千万年かかっちゃうよ、弥勒は兜率天にいるからそっち行ったほうがいいよ、と言ってるのだ(もっともな意見だ)。


ちなみに兜率天は時間の流れがぜんぜん違うので、弥勒が悟りを開くまで長い時間がかかるわけではない。56億7千万年とは、あくまでここで月日を過ごすなら、ということだ。

 

京都は広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像は有名だ。彫刻の国宝としては第一号だそうである。
ドイツの哲学者ヤスパースをして「人間実存の最高の姿」といわしめた作品だ。

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一方、執金剛神もたいへんに馴染み深い。
執金剛神の別名は金剛力士
これは国宝の奈良東大寺三月堂のものである。

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清弁が洞を開く際に芥子を呪しているのは、「開けゴマ」みたいな呪文らしい。この物語では多く呪文が使われており、陀羅尼というのも呪文である。

駄那羯磔迦国とは、インド南西部にあった国の名前。大伽藍があったというが、中国から玄奘三蔵が訪れたときにはすでに何もなかったという。

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でもね、俺は思うんだ。

どこか洞窟の中に、清弁はいるって。

岩の扉が閉められちゃったんだから、外からは見えない。

どこにあるかもわからない。

弥勒の世はまだまだ先、清弁がまだ待っているとしても何の不都合もない。


今はそういうことを信じたいと思っている。
おそらくは玄奘も、同じことを思っただろう。

 

 

巻五第十三話 焼身した兎 月の兎が生まれた話

今昔物語集 巻5第13話 三獣行菩薩道兎焼身語 第十三

今は昔、天竺に兎・狐・猿、三匹の獣がいました。彼らは誠の心を起こして菩薩の修行をしていました。
「わたしたちは前世に深く重い罪を負い、賤しい獣として生を受けた。これは前世に生きとし生ける者をあわれまず、財を惜しんで人に与えようとしなかったことの報いだ。だからこの生では、身を捨てて善いことをしよう」
3匹は最年長の者を親のように敬い、年長の者には兄のように接し、若い者を弟のように思って、自分よりほかの者を優先させました。

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帝釈天はこれを見て、心を動かされました。
「彼らは獣だが、たいへんありがたい心を持っている。人の身ながら、生ある者を殺し、財産を奪い、父母を殺し、兄弟を敵のように思い、笑顔で悪心を抱いたり、恋い慕っているように見えながら怒りを宿している者も多い。とはいえ、このような獣が誠の心を抱いているとは思えない。試してみよう」
帝釈天はたちまち老い疲れすべての能力を失ったような老人に姿を変え、3匹の獣のもとに現れました。
「私は年老い疲れどうしようもありません。私を養ってください。私は子がなく、家がなく、食物もありません。あなたたちは深いあわれみの心を持っていると聞きました」

3匹の獣はこれを聞いて、「わたしたちの望むところだ。すぐに養うことにしよう」と言いました。
猿は木に登り、クリ・カキ・ナシ・ナツメ・ミカン・コクハ・イチイ・ムベ・アケビなどを取り、また里に出ては、ウリ・ナス・ダイズ・アズキ・ササゲ・アワ・ヒエ・キビなどを取ってきて、好みに応じて食べさせました。
狐は墓小屋におもむき、供え物の餅やご飯、アワビやカツオ・様々な魚を取ってきて思うままに食べさせました。老人はすっかり満腹しました。

数日後、老人は言いました。
「猿と狐はたいへん深い心を持っている。すでに菩薩であると言ってもいいだろう」
兎は発奮し、灯をともし香をたいて、耳を高く腰を低くして、目を見開き前足は短く、尻の穴を大きく開いて、東西南北探し歩きましたが、ついに何も得ることができませんでした。

猿と狐、そして老人はあざ笑ったり辱めたり励ましたりしましたが、やはり何も得られません。兎は思いました。
「私は老人を養うために野山に行ったけれども、野山は恐ろしい。人に殺され、獣に食われる危険もある。無駄に命を落としてしまう可能性が高い。ならば、今この身を捨てて老人の食物となり、この生を離れることにしよう」
兎は老人に言いました。
「今、おいしいものを持ってきます。木を拾って火をおこして待っていてください」

猿は木を拾ってきました。狐はこれに火をつけて、兎が何か持ってくるかもしれないと待ちましたが、兎は手ぶらで帰ってきました。
猿と狐は言いました。
「俺たちはおまえが何か持ってくるというので、準備して待っていた。しかし、何もないではないか。ウソをついて木を拾わせ、火をたかせて、自分が暖まろうとしているのだ。憎らしい」
兎は言いました。
「私は力が及ばず、食物を持ってくることができません。我が身を焼いて食べていただきます」
そう言って、火の中に入って焼け死にました。

このとき帝釈天はもとの形に戻り、すべての人に見せるために火に入った兎の形を月の中に移しました。月の中に雲のようなものがあるのはこの兎が火に焼けた煙であり、「月の中に兎がある」といわれるのはこの兎の形です。すべての人は、月を見るごとにこの兎のことを思い出します。

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【原文】

巻5第13話 三獣行菩薩道兎焼身語 第十三 [やたがらすナビ]

 

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

手塚治虫の大作『ブッダ』のイントロとなった話である。数ある仏教説話のなかでもっとも有名なもののひとつだろう。手塚治虫は3匹を「兎・狐・熊」に描いていたが、たぶん絵ヅラを考えて改変したのだろう。

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今昔物語集』巻五は釈迦の前世について述べた話が多いが、本話の元ネタである唐の玄奘三蔵が記した『大唐西域記』は兎を釈迦の前世とはしていない。兎が月にいるとすれば、誰の前世でもあり得ないからだ。今昔物語はこれを「兎の形」として、かなりビミョーな表現をしている。
大唐西域記』からのもっとも大きな改変は、狐と猿、2匹の器用なサブキャラクターをつくっていることだろう。この2匹が難なく食物を集めてくるからこそ、兎の絶望と焼身がひきたつのだ。

 興味深いのは、兎が食物を探索に行く際、香をたいていること。仏教供養のためではないわけで、なんで香をたく必要があるんだろう。知ってる人教えてください。

帝釈天とはバラモン教の神インドラ神であり、仏教の守護神とされる。

釈迦が兎のうちに守護神が出てくるなんておかしいだろ、と思う方もあるかもしれないが、それが大乗仏教である。仏は釈迦ひとりでない。したがって仏教は釈迦の誕生のずっと前からあり、死後もあるのだ。

大乗については下記の解説を参考にされたい。

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私事になるが、大昔に京都の東寺で帝釈天像を見た。女性が「まあなんていい男」と言っていた。

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国宝である。その後、仏像に接する機会は何度もあったが、これ以上のいい男には会ったことがない。平安時代の作だから、1000年はゆうに経過している。1000年前の像がいい男って考えてみりゃすげえ話だなあ。

寅さんの柴又帝釈天も有名である。

【参考】

http://home.kobe-u.com/lit-alumni/hyouronn19.html

 

なお、このテキストについて芥川龍之介がふれている。

「耳は高く」以下の言葉は同じ話を載せた「大唐西域記」や「法苑珠林」には発見出来ない。(この話は誰でも知っている通り、釈迦仏の生まれない過去世の話、――Jataka中の話である。)従ってこう云う生々しさは一に作者の写生的手腕に負うていると思わなければならぬ。遠い昔の天竺の兎はこの生々しさのある爲に如何にありありと感ぜられるであらう。

 

巻七第一話 光を放つ『大般若経』 美しい夢を見た話

今昔物語集 巻7第1話 唐玄宗初供養大般若経語 第一

 今は昔、震旦は唐の玄宗(正しくは高宗)皇帝の御代に、玄奘三蔵が『大般若経』の翻訳に取りかかりました。玉華寺という大伽藍にこもり、梵語から漢語に訳したものを寂照や慶賀らその寺の高僧に筆記してもらうのです。その大訳業がとうとう完成したという報せを耳にして皇帝はたいそうお喜びになり、法会を設けて僧侶たちを集め、供養をすることになさいました。龍朔三年の冬、十月三十日を期日と定めて嘉寿殿をおごそかに飾り、宝幢や幡蓋をはじめ仏具をとりどりに並べたてました。いずれも言語を絶するほどに美しいものばかりでした。

 そして当日、皇帝は『大般若経』の万巻をうやうやしく迎え、玉華寺の粛成殿から嘉寿殿に行って盛大な法会をとり行い、読経の声も高らかに供養をなさいました。その儀式のおごそかさ、いかめしさは例えようもないほどでした。
 そのときです。『大般若経』が光を放ってあちこちを照らしだし、空からは美しい花が降りそそいで、この世のものとは思えない香気がただよいました。皇帝も、大臣も、並み居る百官もみなこれを見て歓喜し、おのおのが「不思議なこともあるものだ」と胸のなかでつぶやきました。

 このとき、玄奘三蔵は門弟たちに言葉をかけました。「経文に書かれているとおりのことが起きた。『大乗の教えを求める者が四方八方にいて、国王、大臣、それに四衆の出家者たちがこの教を書写し、経典を肌身離さず大切にし、読経をし、教えの流布に努めたならば、その者たちはみな天上界に生まれて、最後には悟りを開くことだろう』と説かれているのだ。このようなありがたい経文を知るに及んで、われわれはどうして口を閉じて黙ったままでいられようか」と、三蔵はおっしゃったのです。

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 その後、僧の寂照の夢に千仏が現れました。千仏は空中に漂いながら、異口同音に仏徳教理を讃歎する詩を唱えました。

 般若経は諸仏の母にして深妙なる経典 諸経のなかでももっとも優れたものである
 もしもその経を耳にすることがあれば かならずその者は最上の仏の悟りを得ることだろう
 その『般若経』を書写し、受持し、読誦をする者は その『般若経』に一花一香を供養する者は
 そうした人はたぐいまれに霊妙な奇瑞にあい かならず生死の苦しみを断つことができるであろう

と、千仏が口々に説くさまを夢に見たところで、目が覚めたのです。

 寂照がその夢のことを玄奘三蔵に申しあげると、三蔵は「そのように、経文のなかから千仏が現れでるものなのだ」とおっしゃいました。
 以上が、『大般若経』を供養し奉った初めてのできごとです。それ以降、国を挙げてこれを供養し、経典を肌身離さず大切にし、読経をするようになりましたが、霊験あらたかなことがほんとうに多く、今なお供養は絶えることなく続けられている、と、そのように語り伝えられているということです。

【原文】

巻7第1話 唐玄宗初供養大般若経語 第一 [やたがらすナビ]


【翻訳】
待兼音二郎
【校正】
待兼音二郎・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
待兼音二郎

 待兼音二郎と申します。『今昔物語集』震旦部の翻訳を担当することになりました。この第1話から、まずは巻7の諸話を順々に紹介していくつもりですので、どうぞよろしくお願いいたします。

 さて震旦部は中国を舞台にした仏教説話群を中心とし、天竺部(巻1~5)に引き続いて、『今昔物語集』全31巻のうちの巻6~巻10を構成します。巻6では秦の始皇帝以来の仏教伝来と受容のエピソードがとりどりに語られ、『西遊記』でおなじみの玄奘三蔵による天竺への旅のお話も出てきます。

 つづく巻7の冒頭を飾るのが、その玄奘三蔵の人生の最終章、中国に持ち帰った膨大な数の経典のなかから、『大般若経』全600巻の翻訳を完成させ、皇帝の隣席のもとに盛大な供養を行ったときに生じた奇瑞をめぐる物語です。

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 玄奘三蔵は645年に43歳(42歳の可能性もありますが、没年齢に合わせてこう解釈します)で帰国してからの余生を経典の翻訳に捧げました。その年に着手してから19年を要して物語中にある龍朔3(663)年、62歳にしてようやく完成させたのが、彼の訳業中でも最重要かつ最大の分量を占めるこの『大般若経』600巻でした。その大仕事をいよいよ終えることの感慨と安堵感からか、「玄奘今年六十有五(数え年にしても計算が合いませんが、602年ではなく600年生誕という説もあり、そこから数えて、「もうすぐ数えで65歳になる」という意味なら成立します)、かならずこの伽藍において命を終えるであろう」と語り、その言葉通りに翻訳完成の100日後に満62歳で没したと伝えられています。

 さてその、『大般若経』(正式には『大般若波羅蜜多経』)とは、大乗仏教の最初期における経典群『般若経』を集大成したもので、その説くところは、「最高の真理(般若=智慧)から見るとすべてのものは実体がない(空〈くう〉)である」という教えです。我々日本人に馴染みの深い『般若心経』は、この『般若経』諸経の一部をなすものであるようです。

 それはそうと、完成した翻訳経典を供養する儀式の最中に経典が光を放ち、空から花が降って芳香を放つというのは何とも劇的な光景ですね。ルネサンス期の絵画でボッティチェッリ作の『ヴィーナスの誕生』(1484年)という有名なテンペラ画がありますが、あの絵でホタテ貝の大きな貝殻に立つ全裸の女神ヴィーナスも、空中を舞う花に取り巻かれています。

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 絵の構図を詳しくみると、ヴィーナスの左側にいる花の女神フローラが振りまいた春の花が、フローラの隣にいる西風の神ゼピュロスが吹かせた風に舞っているということのようですが、奇瑞の光景を彩る花ということで類似性を感じずにはいられませんね。

 また、仏教経典には仏が説法するときに、天から花が降ってくるという考えがあり、ここから転じて仏を供養するために花をまき散らすことを「散華」と呼ぶそうです。太平洋戦争中の玉砕や特攻を連想させる言葉でもあるのですが、由来はそんなところにあるのですね。

 ちなみに前述の空から降る花は「四華/四花」(しけ)と呼ばれ、白蓮華すなわち曼荼羅華、大白蓮華すなわち摩訶曼荼羅華、紅蓮華すなわち曼珠沙華、大紅蓮華すなわち摩訶曼珠沙華の4つの蓮華のことなのだそうです。曼珠沙華というのはいわゆる彼岸花のことですから蓮の花とはまた違うかと思いますが、あの彼岸花が空から降る光景には何やら凄絶なものもありますね。

 最後に幾つか語句の解説を。まず「供養」というと我々は死者への弔いを想像しますが、ここでは「仏・法・僧の三宝を敬い、これに香・華・飲食物などを供えること」(大辞林)という意味です。次に「四衆」は「比丘・比丘尼・優婆夷・優婆塞」の総称ですが、読みづらくなるので翻訳ではその詳細を省きました。なお「受持」は、「経典を身から放さず、その教えを深く信仰すること」で、この言葉は「誦持」と解釈した場合には「つねに身を放たずに読経すること」となって意味が変わってきますが、ここでは先行研究を踏まえて「受持」のほうで解釈しました。

 

巻四第二十六話 無着の神通力が世親を改心させた話

今昔物語集 巻4第26話 無着世親二菩薩伝法語 第廿六

今は昔、仏滅後九百年のころ、中天竺の阿輸遮国というところに、無着菩薩という聖人がいらっしゃいました。智恵甚深、弘誓広大でした。夜は兜率天に昇って弥勒の御許で大乗の法を学び、昼は閻浮堤(人間界)で人々のために法を弘めました。

その弟に、世親菩薩という聖人がいらっしゃいました。北天竺の丈夫国という国に住んでいらっしゃいました。国から仏弟子の賓頭蘆(びんずる)長者という方がいらっしゃって、世親に小乗の法を教えました。そのため世親は小乗の法を重んじ、大乗は知りませんでした。兄の無着は遠くにいてこれを知り、なんとかして弟を大乗に導こうとお思いになりました。弟子のひとりを世親のもとに遣わし「すぐにここにおいでなさい」と伝えさせたのです。

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夜、世親が無着の命にしたがって出かけようとしているとき、無着の弟子は「十地経」という大乗の経文を読誦しました。その内容はとても深く、世親の理解のおよぶところではありませんでした。
「私は未熟であったために、このように深い大乗を知らず、小乗を好んで習っていました。大乗を誹謗した罪はとても重いものです。その誤りは、すべて舌より起こりました。これが罪の根本なのですから、舌を切り落としたいと思います」鋭い刀で自ら舌を切り落とそうとしました。

そのとき、無着菩薩は神通力でこのさまを見て、舌を切り落とそうとする手をとらえて離しませんでした。その距離、三由旬(一由旬は王一日の行程)。無着はすぐさま世親のもとにやってきておっしゃいました。
「舌を切ろうとするなど、愚かなことだ。大乗の教本は真実の理であり、多くの仏がこれを荘厳している。人々もこれを尊ぶ。私はおまえにこの法を教えたいと思ったのだ。舌を切るのをやめ、これを習いなさい。舌を切断することは悔いを表してはいない。以前は舌をもって大乗を誹謗したかもしれぬ。今は同じ舌で、大乗を称えるがよい」
そう伝えると、無着はかき消えるようにいなくなりました。世親は教えにしたがい、舌を切らず歓喜とともに大乗を習いました。

そののち、世親は無着の元に行き、大乗の教法を習いました。瓶の水を移すように習い覚えました。兄の無着の教化の不思議です。世親はのちに、百余部の大乗論を書いて世に広めました。世親菩薩と呼ばれるようになり、多くの人に尊崇されました。

【原文】

巻4第26話 無着世親二菩薩伝法語 第廿六 [やたがらすナビ]

 

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

仏教には大乗と小乗がある。

日本に伝わった仏教は大乗仏教で、現代では日本や韓国、ネパールやチベットで信仰されている。小乗というのは大乗(大きな乗り物)に対して小さいと言ってるわけで、蔑視の言葉である。

小乗と呼ばれる仏教はスリランカミャンマー、タイ、カンボジアラオスなどで信仰されている。彼らはこれを、上座部仏教と呼んでいる。

その相違をひとことで述べるのは難しいが、釈迦の教えを厳格に守り崇めているのが上座部仏教、釈迦以外にも仏陀がいっぱいいるとするのが大乗仏教と考えて大きな間違いはない。「菩薩」というキャラクターが登場するのも大乗の特徴である。

無着と世親は兄弟で、姓は世親である。したがって、じっさいにはお兄さんも世親なのだが、ここにあるように、兄貴は無着、次男を世親と呼ぶことが多い。

奈良の興福寺にある無着(無著)・世親像は鎌倉時代の彫刻で、弥勒像の脇侍(本尊を守るように配置される像)をつとめている。どちらも国宝になっている。運慶作といわれているが、誤りらしい。

この兄弟はふたりともガンダーラ(現在のパキスタン)の生まれであるが、それぞれインドの別の地方で活動していたらしい。無着が中天竺、世親が北天竺とする本話の記述が正しいのかは確認がとれなかった。
(調べる時間がなかった。知ってる人教えてください)

世親がはじめ小乗(上座部仏教)の修行をしていて、大乗に転向したのは事実のようだ。
そのきっかけとなった「十地経」とは「華厳経」十地品のこと。華厳経東大寺で毎日読誦されており、奈良の大仏様にあげられているお経は華厳経である。

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世親が『十地経論』と呼ばれる解説書を書いていることから「十地経」で転向したことになったのだろう。
ちなみに、竜樹の主著とされる『十住毘婆沙論』も「十地経」の解説である。

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巻四第二十五話 竜樹と提婆の問答

今昔物語集巻4第25話 龍樹提婆二菩薩伝法語 第廿五

今は昔、西天竺に竜樹菩薩という聖人がいらっしゃいました。智恵は無量、慈悲は広大でありました。また、そのころ中天竺に提婆菩薩という方がいらっしゃいました。この人もさとりが深く、法を広めたいという心も強くお持ちでした。
竜樹菩薩が智恵無量であるということを聞いて、仏法を習いたいと考え、提婆菩薩ははるか西天竺を目指して歩きはじめました。その道はとても遠く、深い川を渡り、崩れそうな架け橋を渡り、岩山によじのぼり、荒磯を渡り、広い荒野を行かねばなりませんでした。水の得られないときもありましたし、食べるものがないときもありました。このように耐えがたい道を泣く泣く歩むのは、未だ知らぬ仏法を習い、伝えるためです。おおいに悩み乱れ辛苦の末、数か月後、ついに竜樹菩薩のもとに参りました。

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提婆は案内を頼むために門前に立ちました。すると一人の弟子が、師の室に入っていくのに出会いました。弟子は問います。

「聖人は何用あってこちらにおいでになったのですか」

「お話したいことがあって参りました」

弟子はこれを聞いて、師の菩薩に伝えました。菩薩は別のしかるべき弟子を立ててたずねました。「どこからいらっしゃいましたか」

提婆菩薩が答えました。「私は中天竺の者です。大師の智恵は無量であると聞きました。とはいえ、道は遠くはるかに険しく、簡単に行くことのできるところではありません。しかも、私は年老いて身もつかれ、歩もうとしてもその道が耐えがたいのです。しかし、ただ仏法を習いたい伝えたいと思いました。仏法を伝える縁があるならば、かならず参り着くだろうと思い、身命をかえりみず参りました」

弟子は承ってこれを伝えました。師はたずねました。「その比丘は若い人か年老いた人か。どんな人か」弟子は答えました。「たいへん尊い様子の方です。本当にはるかな道を旅して来られたのでしょう、やせ衰えていらっしゃいます。今は立ち上がれず門のわきに座りこんでいます」
大師は小さな箱をとって、箱に水を入れ、弟子に「これを持っていきなさい」と伝えました。弟子は箱を提婆菩薩に渡しました。

提婆菩薩は箱に水が入っているのを見て、衣の首より針を抜き出し、それを箱に入れて弟子に返しました。大師が箱を見ると、針が一本入っています。大師はこれを見て驚き騒ぎました。「真の智者がいらっしゃった。すぐに招き入れずたびたび問うようなことをして申し訳ないことをした」僧坊を掃き清め、座をつくり、弟子に「すぐに入ってもらいなさい」と伝えました。

弟子は大師に問いました。
「他国より来た比丘は、なぜ来たかを語りませんでした。大師がまず来意を問うと、比丘は語りました。次に箱に水を入れて渡しました。遠国から参れば喉が渇くだろう、まずは喉をうるおすがよいということかと思って比丘に渡すと、比丘はこれを飲まず、衣の首から針を抜き出し、箱に入れて返しました。針を大師に奉ったのだと考えましたが、大師はこれを見るなり、たいへんな失礼をしたと語り比丘を招き入れました。わからないことばかりです」

 大師は笑っていいました。「おまえの智恵はなってないなあ。中天竺の比丘は、はるか遠くから来て仏法を伝えたいといった。私がそれに答えずに箱に水を入れて与えたのは、『水を入れた器は小さくとも、そこにすべての景色をうつしこむことができる。私の智恵の器はこの器のように小さいけれども、あなたのすべての景色をここに浮かべてみなさい』と語ったのだ。ところが、聖人は私の考えをさとり、針を入れた。これは、『私の針程度の智恵をもって、あなたの大海の底をきわめたい』ということだ。おまえは長年私に付き従っているが、智恵が薄く私の心を悟れなかった。中天竺の聖人ははるか遠くよりやってきたそうだが、私の心の内をよく知っていた。智恵がある者とない者の優劣は大きく違っているものだ」弟子はそれを聞き、肝も心も砕けるように思った。

大師の仰せのとおり、聖人は招き入れられ、大師と会った。瓶の水を移すように多くを習い覚え、法を持ち帰って本国に伝えた。

智恵がある者とない者、心がさとい者遅い者、はっきりと現れるものだと伝えられている。

 

【原文】

巻4第25話 龍樹提婆二菩薩伝法語 第廿五 [やたがらすナビ]

 

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

提婆(アーリヤデーヴァ)とは竜樹の弟子である。日蓮が教説を論じた『曽谷入道殿許御書』によれば(日蓮もたいへんな名文家なのでその手紙の数々を翻訳したいがこれは宗教がうるさそうだ)、竜樹(龍猛菩薩といわれる)は顕教密教両方の教えを持っており、顕教は提婆に伝えたという。言うまでもなく日蓮はこちらを正しき法灯としているわけだ。

この話は『大唐西域記』、そして『宇治拾遺物語』にも記されているという。

日本古典文学摘集 宇治拾遺物語 巻第十二ノ二 提婆菩薩龍樹菩薩の許に参る事 現代語訳

とはいえ智恵のない者の代表である自分は、こんな禅問答わかるかよと思い、真っ先に蒟蒻(こんにゃく)問答を思い浮かべてしまうのである。

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巻四第二十四話 竜樹、透明人間になって犯しまくった話

今昔物語集巻四 竜樹、俗の時、穏形を作る語、第廿四

今は昔、竜樹菩薩という聖人がありました。智恵は無量、慈悲は広大な方です。俗に在ったときは、外道(仏教以外の教)の典籍を学んでいました。そのころ、二人と示し合わせて穏形の(透明人間になる)薬をつくりました。その薬は、寄生木を五寸に切って、百日間、天日に干したものを使うといわれています。その木を髻に入れれば、隠れ蓑のように人の目にふれなくなるのです。

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これを髻に仕込んだ三人は後宮に侵入し、何人もの后妃を犯しました。后たちは、目に見えない者にさわられるので、怖じ恐れて王に伝えました。「このごろ、見えない者が寄ってきてさわるのです」王は智ある方でしたから、思い当たりました。「これは、誰かが穏形の薬を作ってこのようなことをしているにちがいない」
「粉を王宮にくまなくしきつめよ。身を隠すことができる者も、足跡を消すことはできない。行った方向がわかるはずだ」
粉を多く持ってこさせ、王宮内にしきつめさせました。粉とはおしろいのことです。

3人が王宮に忍び込んだとき、粉をしきつめると、足跡が現れました。これと同時に太刀を持った者を多く入れて、足跡のつくところを切らせました。2人は切られました。もう1人は竜樹菩薩です。切られそうになり、后の御裳の裾を引き破ったものをかぶってふるえていました。心の裡に多くの願を起こしました。そのせいかもしれません。2人が切られると、王は「たしかに穏形の者であった、2人であろう」とおっしゃって、切るのをやめさせました。

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その後、折を見て、竜樹菩薩は宮から逃げ出しました。「外法を学んでも益がない」として出家し、名を竜樹と改めました。多くの人に崇められるようになりました。

【原文】

今昔物語集
巻4第24話 龍樹俗時作隠形薬語 第廿四 [やたがらすナビ]

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

竜樹とはナーガルジュナ、仏教中興の祖といわれるたいへん有名な人である。空の哲学を説き、仏教百科事典と呼ぶにふさわしい『大智度論』を記したといわれる。中村元先生による下の大著もある。

bookclub.kodansha.co.jp

 

透明人間になって女がたくさんいるところに忍び込んで好き勝手できたらいいなあ、というのは男の夢で、同じテーマのAVもつくられている。

 

この話、芥川龍之介の戯曲の元ネタになっている。

芥川龍之介 青年と死

【参考】
http://www.hosen.okayama-c.ed.jp/library/wp-content/uploads/7525a1d272957154405187abfc08268a.pdf

応募要項

●お仕事

現在、 【翻訳】【校正】【協力】【解説】と4つのポジションを用意しています。
どの関わり方をして下さっても、クレジットはいたします。

ただし、【解説】は【翻訳】とセットです。【解説】のみの希望は受けつけておりません。
【協力】とは経済的援助のことだとお考えください。

参加方法はこちらです。

hon-yaku.hatenablog.com

しかるべき立場の方には、テキストを読んでいただく【監修】というクレジットも用意しています。


●連絡先

お仕事していただける方は、たいへんお手数ですが

kuruson55あっとaol.jp

(あっとは@)

までご連絡ください。

どうぞよろしくお願いいたします。


●勤務形態

「ほんやくネット」はボランティアです。

ボランティアというと、被災地復興などのハードなものをイメージしてしまいますが、ここでいうのはもっとゆるーいものです。

フルタイムで参加する必要はありません。パートタイムでいいし、自分の好きなときに、あいている時間を活用して参加してください。
もちろん生活優先・職業優先でかまいません。
あなたがこのプロジェクトにどう関わっていきたいかも相談に応じます。

また、テキストのやりとりなので、基本的に顔を合わさずにやってもらおうと考えています。
お住まいもどこだってかまいません。
離島だろうが山間だろうが海外だろうが、どこでもよいです。

資格は、「日本語を解する」ことだけです。


●私に翻訳できるの?

古典文学の翻訳なんかできるもんじゃない。
そう考えて尻込みしてる方、多いですよね?

難しいことはありません。誰でもできます。

わたしは国文学専攻ではありませんから、古文は高校で習った以上のことは知りません。
高校卒業してからもう20年以上経ってますから、当然のこと忘れています。

にもかかわらずできる。あなたにもできます。

やり方は教えます。

個人的には、翻訳にもっとも必要なのは、現代日本語の表現能力だと思っています。

 

●レポート

このプロジェクトの立ち上げに際して、わたしの鼻息の荒い様子を、シミルボンでレポートしました。

shimirubon.jp

shimirubon.jp

続けられるかぎり続けようと思っています。ネタは尽きないはずだから。

 

 

 

 

 

 

巻5第1話 クレジット

【原文】

巻5第1話 僧迦羅五百人商人共至羅刹国語 第一 [やたがらすナビ]

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

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【解説】

草野真一

 この話は釈迦の本生譚(前世の物語)のひとつとされていて、ジャータカ(本生譚を集めたもの)にも記載がある。わかりやすくいえば、この話で大活躍している僧迦羅とは、前世の釈迦だというわけだ。
「美人しかいない、年寄りもブスもいない島で、働きもせずのんびり暮らせたらサイコーだよな~。しかも美女は俺のことが大好きなんだ」というのはオトコの妄想で、この妄想は1000年前にも賛同を得られるまさに普遍的なものだってことがわかる。井原西鶴の『好色一代男』も美女ばっかりの島への船出で終わってるそうだ。

 じつはその美女は鬼(羅刹)だよ、という話も、要するに「世の中そうそううまくいかないよ」と語ってるわけである。
 ただし、これだけ幸福だと、正体が鬼だって取って食われたっていいじゃん、と考えるやつがいそうだ。実を言うと私もそうだ。そういう人のために、この話は「幸福なのははじめだけだよ、いずれ足の腱を切られて歩けなくされて監禁されるんだよ」とシビアな状況がつきものであることを述べている。

 この物語が重要なのは、現代に続く物語であることだろう。
 僧迦羅とはシンガラすなわちシンハラであり、羅刹国とはセイロン島(現在のスリランカ)であることもわかっている。すなわち、この話は「スリランカ建国秘話」なのだ。
 シンハラ人とタミル人との間に長く紛争が続き、血が流れ続けたこととこの話はまったく無縁ではない。
 その長き紛争にたいする外務省の解説は以下。

出典は、大唐西域記巻第十一。宇治拾遺物語巻六は本話と一致。
【参考】

dokdo12.wiki.fc2.com

「異界の島への航海神話としての『御曹司島渡』」松村一男 (和光大学

https://wako.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4083&item_no=1&page_id=13&block_id=55